道院長法話 あうん、よりvol.48 修行の目的と手段

教学委員会在籍中に、「あうん原稿を1380文字書いて提出してください」と今から7年前に何を書こうかと考えた時に、何のために修行を続けているのかと考えた。人づくりの手段としての金剛禅が技の魅力の虜になり、いつしか技の修練に明け暮れている事が当たり前になってくる。

しかし、金剛禅修行法には技=易筋行だけではなく、易筋行=(剛法、柔法、整法)中心にして肉体と精神をバランスよく調和させることが必要である。特に内修の示されている反省行や、感謝行、持戒行(持戒とは戒(いましめ)を守ること)などは日々の生活で実践することが求められる。

だからこそ、目的と手段を明確に修行(稽古)をしないと若い時には身体が動いても年齢と共に幸せに生きるためにとても大切な行なのです。

あうん、よりvol.48 修行の目的と手段

多くの禅僧の伝記を掲載している伝灯録に南嶽懐譲(なんがくえじょう)と馬祖道一(ばそどういつ)との問答が載っています。
 「道一がまだ悟りを開く前で、伝法院で学んでいるときのこと。彼は毎日、一生懸命座禅を組んでいた。そこを通りかかった懐譲禅師が聞いた。
 『お前は何を求めて座っているのか』
 『仏になろうと思います』
 懐譲禅師はどこからか煉瓦をひとつ拾って来て、道一が座禅している岩でごしごし磨き始めた。
 道一が不思議に思って聞いた。
 『一体何をなさっているのですか』
 『鏡を作ろうと思ってな』
 道一は吹き出した。
 『煉瓦を磨いたって鏡ができるもんですか』
 懐譲が言った。
 『座禅をしたとて、成仏できるものか』
 道一は瞬間、くらっとするものを感じた。
 『ではどうしたらよいのですか』
 『人が牛車を御していくとき、車が進まなかったら車をうてばよいのか、牛を打てばよいのか』
 懐譲が道一に言った。
 『お前は座禅を学んでいるか、それとも座った仏を学んでいるのか。
 もし座禅を学んでいるのなら坐禅は座る所にはなく・・・禅というのは、座って、心を静めることなのではない。静かだと思われるその静けさまでも打ち壊してしまわなければ、そこからも抜け出さなければ、その境地を得ることはできないのである。

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