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Shorinji Kempo

修身教授録 森信三著書より

9月16日 少林寺拳法の修練日の法話の時間に中学生、高校生に特に聞いてほしいと自分の経験も含め、師にめぐり会ってからの人生が正にこの「尚友」に書かれている内容だと気づかされたからである。

第10講   尚 友

これは友を尚ぶという意味で、この言葉は読書と並べて、古来「読書、尚友」というふうに使われている言葉であります。

  人を知る標準としては、第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかいうことであり、第三には、その人が今日までいかなる事して来たかということ、すなわちその人の今日までまでの経歴であります。そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、そして最後がその人の友人いかんということであります。自分の一生の目標を何と立てるかということも、結局はその人が、師の人格に照らされて初めて見出されるものであって、人間は師をはなれては、生涯の真の目標も立たないと言ってよいでしょう。

またいかなる書物を愛読するかということも、結局は師の教えに照らされて、おのずから見えて来ることでしょう。またその人の過去の来歴というようなことも、その人が自分の師を発見しない間は、いりいろと彷徨して紆余曲折もありましょうが、一たび心の師が定まった以上は、迷いもおのずから少なくなり、また自分一人では決し得ないような大問題については、師の指図を仰いで身を処しますから、結局大したつまずきもなくなるわです。かくして今友人関係において、真に尊敬するに足る友人とは、結局は道の上の友ということでしょう。したがって道の上の友ということになると、結局は師を共にする場合が多いと言えましょう。つまり同門の友というわけです。                                        《修身教授録 森信三著 致知出版社》

二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう

臨済宗円覚寺派管長横田南嶺著書

「二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう 」   = 生きるための禅の心= より引用しています。

   

横田管長は坂村真民氏の詩集を毎日お寺の掲示板に掲載し続けている。「生きていくのがつらくなったり、苦しくなったら、祈ってください。神様でも、仏さまでも大自然でもご先祖さまでも、何に対して祈るのでもかまいません。 とにかく自分を超える何か大いなる存在の前にひれ伏して祈り続ける。すると不思議と生きる力がわいてきます。

『祈り』という言葉には深い意味が込められています。祈りの『い』は『いのち』や『生きる』という意味です。『のり』は『祝詞(のりと)』という言葉に代表されるように、宣言することを意味します。つまり『祈り』とは『生きると宣言する』ことなのです。」

苦しいことやつらいことに直面した時、人は祈りを捧げます。それはどんなにつらいことがあっても、死なずに生きていくのだ、といういのちの宣言なのです。

私たちは生きなければなりません。たとえ孤独にうちひしがれ、愛する人を亡くし、地べたにはいつくばって、塗炭の苦しみを味わってもなお、人は生きなければなりません。なぜならその先に光があるからです。

真民先生はこのように書いています。

        鳥は飛ばねばならぬ

          人は生きねばならぬ

          怒涛の海を

          飛びゆく鳥のように

          混沌の世を

           生きねばならぬ

           鳥は本能的に

           暗黒を突破すれば

           光明の島に着くことを知っている

           そのように人にも

            一寸先は闇ではなく

            光であることを知らねばならぬ     (『鳥は飛ばねばならぬ』より)

一寸先は闇ではないのです。闇だと思っても「生きるのだ」「生きるのだ」と祈り続けていれば、必ず光がさしてきます。私はこの「生きねばならぬ」という心を、次のような言葉で説明しています。

『明日はどうなるかわからないけれど今日1日は笑顔でいよう。つらいことは多いけれど今日1日は明るい心でいよう。いやなこともあるけれど、今日1日は優しい言葉をかけていこう』

金剛禅総本山少林寺長崎県教区公認講習会

2023年8月27日(日)大村市武道館において東京八王子富士道院長中島正樹先生を講師にお迎えし約50名の受講者が教えと易筋行を汗びっしょりになりながらも和気あいあいと取り組んだ。法階講義では中島先生が「金剛禅総本山少林寺開創の動機と目的」について講義された。   開祖の体験から「帰国してみると多くの青少年は希望も夢も失い」という部分が今の時代は当時と比べてはるかに豊かにはなったけれど共通しているのは「自分を見失っている」ということに触れられ、「自分が気づいていない」、「自分がいいと思っている事を人に押し付ける」それをお互いが共有していると勘違いしていることにさえ気づいていない。

  講義中の中島正樹先生 

Z世代の皆さんがこれからの少林寺拳法を支える。自分の言葉で教範や副読本から学んだ言葉でなく、行動で日常に活かすこという事を忘れないようにしてほしい。そして「開創の動機と目的」に共感できる。なぜですか?、どこに共感しますか?、本当はお聞きしたい。そうすると開祖の教えは生きてきます。自分の行動につながります。開祖の経験された事に自分の経験をプラスして「開創の動機と目的を理解してほしい」少林寺拳法用語でない言葉で話が出来るよう「創造」してほしい「技」で終わるのではなく「価値の創造」をしてほしい。金剛禅は「禅」ですから自分の言葉を使って自分らしく「創造」してほしい。と最後に「付箋」を全員に渡されて質問は「少林寺拳法が今の時代の必要感って何ですか?自分の経験、言葉で書いて下さい。指導していて役立った事も書いて下さい」と説明があり、「書いた人は黒板に貼ってください」と、書いた人が次々と貼っていくと、「では時間が少ないですが読んで行きます」と「少林寺拳法の大会ではみんなスターです」「命」「あなたの演武もすごいけど、あなたを応援するのが楽しい」「人とはどうあるべきか考えることが出来る」「練習に来てよかった」「仲間作りと技の魅力」次々に読み上げられた。講習会を通じて「少林寺開創の動機と目的」を試験のために暗記したりした人は多いと思うが、具体的に一人ひとりの心に訴えられた講習会は考えさせられた。

講義前の70分間は易筋行を中島正樹先生が指導された。

          

僧階講義②は飯塚久雄講師(島原城南道院長)テーマは宗論(宗教論)6宗教概論B5   「宗教はいかにあるべきか」

『教範』に述べられた開祖の宗教観をもとに、現代における主教と人々の信仰のあるべき姿について講義が行われた。冒頭では、社会的信用を失くしている日本の宗教の現状「オウム真理教」や「旧統一教会」問題などを話された。宗教と聞いただけで敬遠する人が多いが外国では無宗教は野蛮人とみられる。

なぜ、宗教はあるのか、何を宗教というのかについては教範に述べられている開祖の宗教観について説明があり、「正しい宗教とは」釈尊の教えは、不養生をして病気になったのを癒してもらうように願う教えでなく、無駄使いをしたあげく、借金が出来て苦しい時にお金が儲かるように祈る教えでもない。不幸や災難をなくしてもらう教えではなくて、不幸や災難を苦にする心を省みてその不幸に打ち勝つ力を得さしてもらう教えである。総て無反省に我利や利己を中心として都合の好いように願う宗教では断じてないのである。釈尊の教えは自己を反省することに始まる。と読み講習をされた。

そして、釈尊の教えから逸脱した現今の仏教の現状を列記して、正しい宗教の在り方を

1,生身の生き方を問い続けること。

2,呪術や祈祷に頼らず、教えに依ること。

3,この世に理想境を打ち建てるため、社会に貢献すること。

4,苦行でなく、養行に精進すること。

5,教えを日常生活の中で実践すること。

6,職業生活を含めて、普通の社会生活を送ること。これらの諸点こそ、釈尊の《正しい》教えと金剛禅の接点なのです。

仏教は智慧と慈悲の獲得・実践を目指す宗教 仏教の悟りの本質は「智慧」と「慈悲」

慈悲について「いつくしみ」「あわれみ」の意味であり、「慈」と「悲」とはもともとは別の語である。「慈」とはサンスクリット語のmaitri (マイトリー)という語の訳である。「真実の友情、純粋の親愛の念」を意味する。これに対して「悲」とはサンスクリット語のkarunaの訳で「哀憐」「同情」「やさしさ」「あわれみ」「なさけ」を意味する。(引用 慈悲中村元著) 父は、子どもが元気がないときに「頑張れ」「クヨクヨするな」と励ましの言葉を掛ける。  母は、子どもがつらそうにしている時にそっとそばに来て、何も言わずに「つらいね」とそばに寄り添う。

小林一茶と橘の伊南(良寛の父)慈悲は実感がこもる。一茶が詠んだのは「やれうつな ハエが手をする 足をする」そして橘以南は、「そこ踏むな 夕べ ホタルがいたあたり」一茶は思わず、参りましたと頭を下げた。以南の句では、どこも踏めないことになってしまう。(引用:玄侑宗久ブログ) 最後に金剛禅の修行法を自分の生活の中で実践している内容を具体的に伝えられた。  

–<信仰の確立>ダーマ信仰の確立を指しますが、自分が生きていく上で大事な信念を確立する。

–<調息・坐禅>調息・坐禅を通して自律神経を整え、集中力、平常心を身につける。     

–<問法修学>教範学習を指します。※教範とは金剛禅のいわゆる教科書です。金剛禅に関わらず怠らず学びつづける。読書は最適です。

–<反省行>日々を振り返り、日記などを付けてその日を省みることです。反省の上に立ち、未来に向けて成長します。                         

–<感謝行>自分に与えられた全てに対して感謝の気持ちを持つことです。         

–<持戒行>自分を制御するための行です。タバコは「開祖が一つぐらい持戒しろ」と言われ本山で仲間と一緒の講習会で止めました。                    

易筋行> 少林寺拳法によって心身共に逞しくなります。

整体行>身体を整え、健康を維持するために施す身体調整法のことです。 定期的にケアに行っている。島原城南道院ではウオーミングの時に二人組になり拳士同士で行っています。

托鉢行>社会に対する奉仕のことです。拳士会では数年前から本山が災害が起きた時だけでなく、災害基金を受け付けられた時から毎年1月にわずかですが送金しています。私は赤十字などに毎月すこしだけ寄付を行っています。確定申告で減税になりますがそれは目的ではありません。卒業した学校にも年末に毎年備品などを購入してもらうようにわずかな寄付をしている。(無財の七施)は誰でもすぐにでも出来るので道院で実践するといいでしょう。

休養> 好きな趣味に没頭するとか、体を休めることです。

食養>食物を感謝を込めて頂く事です。バランスのよい食事は健康を保つ大事な要素です。毎朝リンゴをすりおろしてガーゼで絞ったジュースを飲んでいます。腸が弱かったけど驚くほどの効果があります。                                     <排泄>体に毒素をため込まない事です。休養、食養、排泄のサイクルが大事です。

    長崎県教区長 法座道院長プログラム                あうんVol82「金剛禅教団の理念」の制定

1 はじめに

    金剛禅教団では、このたび、「金剛禅教団の理念」を制定しましたが、これは、一つ の組織体として社会の中で存在し、永続的に永続的に活動していくための「最上位の目 的」です。この理念は、金剛禅教団の様々な諸活動をすべて束ねる目的の中の目的です。  そこで、周知徹底を図る意味からも、今一度、その内容についてお話しします。

2 制定の背景

  金剛禅には、ダーマ信仰という確固たる教義が存在します。人間は、大宇宙の大霊力 ダーマの分霊として存在し、その分霊たる霊魂を所有しています。そして、霊魂とその 住家である肉体を修養することで、真に己を拠り所とし、世のため人のために役立つ人 間になることを目指す。これが教義の根本です。

  金剛禅門信徒にとっては、教義が修行の背骨です。その一方で、教団という一つの組 織体が活動を展開するにあたっての背骨となるのが、「金剛禅教団の理念」なのです。3 「金剛禅教団の理念」の解説

    「金剛禅教団の理念」の冒頭には、

 ① 全門信徒・道院長・役職員が、自己の人格を磨きこれを高める。

      私たちは修行をすることを旨とした団体であることから、自己の人格、霊魂を修養  していくことが出発点であり、それにより正しい判断力や決断力、行動力を体得して  いきます。

  ② 幸福を追求する。

      「幸せ」とか、「生きがい」というものは、つまるところ、開祖が述べられている  ように人間関係の豊かさに価値を感じることにより、真に幸せな世界が可能になると  いうことです。

  ③ 金剛禅の価値を創造する。

      開祖は、少林寺拳法を「身心一如・自他共楽のあたらしい道」と示されました。し  かし、たとえ当時は真新しかったものでも、それを刷新していかなければ古びたもの  となってしまいます。さらに進化させレベルを高めるために常にその価値を創造して  いくことが求められています。つまり、少林寺拳法に内在する「宝」を現代に適した  形で創造していく必要があります。

  と示されています。

4 具体的三項目

    今回定められた「金剛禅教団の理念」では、更に三つの小項目を付加されています。  ① 人間本来の使命を自覚し、たゆまず自己変革し続ける人をつくる(信条)。

  ② 社会変革に果敢に取り組む、志あるリーダーをつくる(開祖の志)。

  ③ 金剛禅運動(幸福運動)を先導する、優れた道院長をつくる(活動重点)。

5 終わりに

    「金剛禅教団の理念」では、まず「幹」として「全門信徒・道院長・役職員が、自己 の人格を磨きこれを高め、幸福を追求するとともに、金剛禅の価値を創造し、物心両面 において調和のとれた、平和で豊かな社会づくりに貢献する。」と定め、さらにその細 目として三項目が定められています。教団の理念を自らの肚に落とし込んだ上で、ゆる ぎない信念を持って、金剛禅運動に取り組んで参りましょう。

コーチング 私の目標

 昨年も拳士全員に「道院に通う目的」について書いてもらい、目標達成日を記入して取り組んだ。その結果ほぼ90%の拳士が目指す頂きに到達した。下の表は少林寺拳法マンダラ (力愛不二=金剛界、胎蔵界を表わす)に記載しているのは何も昇級、昇段のためだけではない。

 初・二段までの拳士には昇級、昇段目標や各種大会目標など短期目標が効果的に達成することで次のステップへと進むことが出来る。社会人であれば、仕事に対してのテーマや、悩みや人生の目標にも使える。

全員で行う共通修練の後、クラス別の取り組みでは自分が目指す目標テーマに取り組んでいる。                     個々のテーマが分かっているので目指す方向へコーチングを行い、言葉かけはペップトークやストローク、言葉のポジティブ変換やアンガーコントロールが役立っている。

マンダラの青色で表示している「基礎」、「学科」、「鎮魂行」、二段目の「組演武」、「運用法」は修練科目で共通課題、下段に青色で「人間性」、「運」、「苦手をなくす」は、人格形成への道を記載しています。

道院長としての私の目標は、人づくりの手段として「小学生から指導者を育てるために今年は基本指導、鎮魂行主座、打棒が出来るようになるように実践する」事を目指しています。

 

映画 こんにちは、母さん 

  

2023年9月10日(日)

諫早駅から長崎駅まで新幹線で9分。

隣のアミュプラザ4階の映画館で「こんにちは、母さん」を妻と二人で見てきました。息子役の昭夫(大泉洋)は一流企業の人事部長役、母親役の吉永小百合の実家は人情味溢れる「足袋屋さん」大会社の人事部長として働く昭夫ですが、実は日々会社の人事問題で神経をすり減らしています。おまけに妻とは別居中 大学生のひとり娘・舞(永野芽郁)は両親に心を開かず、その関係にも頭を悩ませていました。後は映画をご覧になってのお楽しみ。

20代から40代までのサラリーマン時代を思い出し、少林寺拳法の修練日に会議が重なると手を挙げて「帰ります」と告げて道場へ通い、修練が終わってから又職場に戻り夜中まで書類作り等した事を思い出して、あの頃少林寺拳法をしてなかったら息子役の昭夫と同じ悩みに神経をすり減らされていただろうな~と考えさせられました。

道場での修練に全力で取り組み職場と家庭とバランスの取れた生活が出来ていたのは少林寺拳法によって気持ちの切り替えが出来て余裕のある日々を過ごせてたことに感謝しました。

法座 テーマ「少林寺拳法から学んだ事」

8月26日(土曜日)今回は「法座式次第」を行わずに車座になって行った。

★E,Sさん 初段准拳士    

少林寺拳法で学んだことは話をすること。小さい頃はとても人見知りであまり人と話せなかったが、少林寺拳法に入って自己紹介の練習などして人と話せるようになってきた。諫早の高校に進学し、周りが知らない人ばかりで緊張したが、少林寺拳法でやった自己紹介や自分から話すことを意識したところ自分から話すことができた。

夏の思い出は2つ。1つはインターハイに北海道まで行ったこと。とても大きな経験ができた。学校でもたくさん祝福してもらったし良い演武もできたし帰りには東京に寄って良い思い出になった。もう1つは夏休みがすごく短く今週から2学期がスタートしているが、登校日に友達からインターハイのことを聞かれたりして嬉しかった。今日は文化祭だった。すっごく楽しみだった。出し物も楽しかったし、高校生だから経験できることがたくさんある。進学する前は迷ったがとても良い経験ができている。これからも悔いのない高校生活を送ろうと思う。

★J.Sさん 初段准拳士   

少林寺拳法で学んだことは平常心。何かあったときも落ち着いて行動できるようになった。少林寺拳法に入ったすぐの頃はわちゃわちゃしたりしていたが飯塚先生から打棒の意味を教えてもらって、鎮魂行の打棒のときに平常心を意識していたら、学校などでも緊張する場面でも緊張せずにやれたり、最近はオープンスクールで人がたくさんいてすごく緊張したが、落ち着いて楽しめた。夏休みはずっと家から出ず宿題やアニメをみたりごろごろしていた。精霊流しにお母さんと行った。夏休みに久しぶりに外出し、爆竹も久しぶりにきいて、新鮮だった。テレビでみた長崎のとは次元が違うがそれでもすごくて、いいなと思った。

★H.Tさん 三段中拳士   

今年の夏はやたらと暑かった。ぼーっとしていて今日なんかは鉄板を抱えていたがバチっとはさんでしまったが、少林寺拳法をやっているおかげでやばいと思った瞬間に抜くことができて怪我はせずにすんだ。抜いた瞬間に自分でもびっくりした。

★S.Tさん 初段准拳士 

少林寺拳法で学んだことは、人との関わりが大きいと思う。コロナの関係でなかなか会えないが会えたらあわせていきたい。夏休みはないが、仕事が休みの日に両親と鹿児島に行った。介護の仕事をしているので自分のおばあちゃんにも優しくしたいと常に思っている。

A.Mさん 六段大拳士  

最近、職場で夏バテになっていたり、仕事が忙しくて書類の夢しか見ないという話が出たり、その人の状況にもよるけど、気持ちの切り替えが出来ずに、夜もあまり眠れず体がきついまま職場に来ている人がいる。私も疲れて書類の書面しか出てこない夢を見たことがある。少林寺拳法をしている事によって家と仕事の往復だけではないので、稽古に来て、いろんなことを学んで刺激が入ったり、いつの間にか帰りには少林寺拳法の事を考えている。気持ちの切り替えが出来ているのはとてもいいなと思っている。

道場へ行くといろんな人に出会い、話をして学ぶことがあるので自分自身を振り返れるのでとてもいいです。                                     夏の思い出は、お盆は実家に帰っているが今年は仕事なので「精霊流し」を見に行った。随分前に姉と一緒に長崎の精霊流しに行った事を思い出し、「あ~姉と一緒に行って見たな~」と懐かしくなった。

T,Hさん 

私は、仕事の関係から下を向いてパソコンや顕微鏡などを見ることが多く首の痛みが続くので病院の整形や整骨院、飯塚先生のカイロに行き治ってから毎週通っている。治療の時に時々少林寺拳法の事は聞いていたんですが先生から、「少林寺拳法をしませんか」と誘われたので考えました。行きだしたら毎週2回水曜日と土曜日休めないので悩んだ末に来ました。

少林寺拳法で学んだ事は、黒帯の人が技を見てくれて指導してもらう時に「ゆっくりやってください」と声をかけてくれて、間違うと「もう一度やってみましょう」と優しく言われ、「こんな教え方があるんだとびっくりしました」大学病院時代から職場で指導する時には一方的に教えたり、大きな声で教えたりするので今後は後輩に優しく教えられたらいいなと思います。

S.Sさん 五段大拳士 

少林寺拳法から学んだ事は、過去の自分と今は、はっきり違います。何が違うのかと言えば他人に対する態度や言葉使いだったりします。前に、法話の中で先生から「無財の七施」の中にある「和顔施」の話があり、職場で後輩の面倒を見ているのですが、「仕事にみんな苦しい時ほど笑顔でいようね」と話しています。

道場に打棒棚を取り付けてスッキリ

8月18日(金)道場に打棒を受ける金具を注文していたのが届いたので夕方からひとりで簡単にできると思い、準備して取り掛かるも水平バランスや上下の間隔が小学生用打棒と一般用打棒との左右の長さのバランスを何度も鉛筆で印をつけて仮止めしては、やり直し何とか見た目にバランスが取れたところで妥協して本止めする。

 正面右の棚に拳士の荷物置き専用だけど、道院長用の棚が2枠、2段にプロゼクターやその備品ケース、カメラケース、スピーカ、教範や資料集など,ごちゃごちゃとしている感じなのでこの際に片づけようと悪戦苦闘してやっと終了したのは何と3時間半経っていた。

この日は世界大会の練習に来る人達が8時に来るのでエアコンも扇風機も付けたままで食事に自宅へ帰る。

 

法を問い学を修める No61 愛と慈悲

『愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。』
 (「真理のことば」(ダンマパダ)第十六章 愛するもの212」

 仏教では「愛は渇愛であり、渇愛とはのどがかわいて水を求めるように、激しく執着すること」と捉え、欲望の一種であり、煩悩として捉えているために渇愛から離れることを理想とした。
 たしかに愛の典型的なものは一般的には男女の愛情のことと考えられているのではないだろうか。しかし愛はそのまま慈悲ではない。愛には自分だけのものにしたいという独占欲や支配欲に結びつきやすい側面がある。
 愛は常に憎しみに転じる可能性をもつ。しかし慈悲は愛憎を超えた絶対の愛である。人を憎むということがない。
 『原始仏教においては、まず人間が利己的なものであるという現実の認識から出発するのである。
 

 或るときパセーナディ王は、マツリカー妃とともに宮殿の上にいたことがある。その時の対話の中で「マツリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね。」王は或る答えを予期していたのであろう。甘い答えを。ところが妃ははぐらかしてしまった、「大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません。」最愛の人々の間でさえもこうなのである。
 妃はさらに反問した。「大王さまよ。あなたにとっても自分よりもっと愛しいものがありますか。」
 「マツリカーよ。わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何も無い」
 王はおそらく興ざめてがっかりしたであろう。彼ひとり宮殿から下りて、釈尊のところへおもむいてこの次第を告げた。そのとき釈尊はこのことを知って次ぎの詩句を唱えたという。
 

「思いによっていかなる方向におもむいても、自分よりさらに愛しいものに達することはない。そのように他の人々にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を傷つけることなかれ。」と述べられたという。』(「原始仏教 その思想と生活」中村元著)
 慈悲とは「いつくしみ」「あわれみ」の意味であると普通に理解されている。
 「慈」と「悲」とはもとは別の語であった。
 「慈」とはサンスクリット語のマイトリー (maitrī)またはミトラ(mitra)という語の訳であり、真実の友情、純粋の親愛の念を意味するものである。
 

 これに対して「悲」とはパーリ語及びサンスクリット語のカルナー(karunā)の訳であるが、「やさしさ」「あわれみ」「なさけ」を意味し、相手の悩みを取り除いてあげたいと思う気持ちである。
 南方アジアの上座部仏教においては「慈」とは「人々に利益と安楽とをもたらそうと望むこと」(与楽)であり、「悲」とは「人々から不利益と苦を除去しようと欲すること」(抜苦)であると註解している。

 慈悲の実践は社会の不正や理不尽な行為に、ほうっておけない憤りと悲しみを我が事のように感じ、どうにかしてあげたい、手を差し伸べずにはおれないと勇気をもって行動することである。
 開祖のいう愛とは『してあげる、与えてあげることで喜びを感じる感情。あるいは、反対に自分が苦しんだり困っているときに、素直に他人の行為を受けいれられる、そういう意味で豊かな心を持った人を、私は育てたい』と述べられている。
 ※参考文献 慈悲 中村元 講談社学術文庫

法を問い学を修める 自燈明 法燈明

もうかなり昔、夏の恒例行事であった指導者講習会に参加した。
 多度津町の民宿はどこも若い拳士でいっぱいだった。
 夕食を済ませ、再び本山へ登り本堂に集合すると、道場の中央に1本だけ灯(とも)されたローソクを起点に、隣の人から人へと灯(ともしび)をリレーしていった。

 電気を消して先ほどまで暗かった本堂に、灯の明るさが増す中、鈴木義孝元金剛禅総本山少林寺代表(現 SHORINJI KEMPO UNITY 顧問)から「この灯は宗道臣管長(開祖の当時の呼称)が灯してこんなに大勢の人たちに伝わり広がった。この灯は人から人へと受け継がれていき、少林寺拳法が世の中を明るく照らす灯になる」と話された後、全員で教典を唱和し、聖句「己れこそ己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり」の声が厳粛な雰囲気の中で響きわたったあの感動は、今も忘れられない。  

『ブッダ最後の旅』(中村元訳 岩波文庫)には、ブッダ(釈尊)が最後の説法の旅に出てその途上での出来事の中で、弟子たちや信者たちに遺戒となったブッダの死とその前後のことが詳しく語られている。
 ブッダは旅の途中で雨期の定住に入られたとき、恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こるが、苦痛を耐え忍んだ。そばにいた愛弟子のアーナンダが「尊師が修行僧たちに何ごとか教えを述べられない間はニルバーナ(涅槃)に入られることは無いであろう」とブッダに告げると、「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握(にぎり)拳(こぶし)は、存在しない。『わたくしは修行僧の仲間を導くであろう』とか、あるいは『修行僧の仲間はわたくしに頼っている』このように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何事かを語るであろう。」
 「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」
 「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのようにみなしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。」
 「さあ、修行者たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』と。」これが修行を続けて来た者の最後のことばであった。

教えを説かれた開祖は、もはや私たちの前にはおられない。開祖から受けた教えに頼り、自己に頼り、他者へ教えの灯を照らすことが、教典の最初に自己確立の教えを持ってこられた開祖の願いでもあったはずである。
 わたしたちは、開祖の教えの光を受けて信念を確立し、金剛禅へ帰依し、自分の人生をたくましい生き方へと変えることが出来た。
 開祖の「自分は可能性の種子、努力次第で開花結実させることができる。自分で自分をあきらめるな」と力強く語られた言葉を聞いたとき、身震いするほどの感動を覚えた。
 開祖から受けた教えを拠り所とし、その教えを今度は自らが光となり、他者へ受け渡していく役割がある。
 自己を燈(ともし)火(び)とし、教えを燈火としているのかどうかが問われている気がしている。 

島原城南道院 道場までのご案内

 

 🗺島原城南道院 道場までのご案内🗺

島原中央道路の島原外港ICからのルートをご案内します🚗

島原外港ICを降りて左折後200メートルほど直進した右側です😃

 

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