『愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。』
(「真理のことば」(ダンマパダ)第十六章 愛するもの212」
仏教では「愛は渇愛であり、渇愛とはのどがかわいて水を求めるように、激しく執着すること」と捉え、欲望の一種であり、煩悩として捉えているために渇愛から離れることを理想とした。
たしかに愛の典型的なものは一般的には男女の愛情のことと考えられているのではないだろうか。しかし愛はそのまま慈悲ではない。愛には自分だけのものにしたいという独占欲や支配欲に結びつきやすい側面がある。
愛は常に憎しみに転じる可能性をもつ。しかし慈悲は愛憎を超えた絶対の愛である。人を憎むということがない。
『原始仏教においては、まず人間が利己的なものであるという現実の認識から出発するのである。
或るときパセーナディ王は、マツリカー妃とともに宮殿の上にいたことがある。その時の対話の中で「マツリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね。」王は或る答えを予期していたのであろう。甘い答えを。ところが妃ははぐらかしてしまった、「大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません。」最愛の人々の間でさえもこうなのである。
妃はさらに反問した。「大王さまよ。あなたにとっても自分よりもっと愛しいものがありますか。」
「マツリカーよ。わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何も無い」
王はおそらく興ざめてがっかりしたであろう。彼ひとり宮殿から下りて、釈尊のところへおもむいてこの次第を告げた。そのとき釈尊はこのことを知って次ぎの詩句を唱えたという。
「思いによっていかなる方向におもむいても、自分よりさらに愛しいものに達することはない。そのように他の人々にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を傷つけることなかれ。」と述べられたという。』(「原始仏教 その思想と生活」中村元著)
慈悲とは「いつくしみ」「あわれみ」の意味であると普通に理解されている。
「慈」と「悲」とはもとは別の語であった。
「慈」とはサンスクリット語のマイトリー (maitrī)またはミトラ(mitra)という語の訳であり、真実の友情、純粋の親愛の念を意味するものである。
これに対して「悲」とはパーリ語及びサンスクリット語のカルナー(karunā)の訳であるが、「やさしさ」「あわれみ」「なさけ」を意味し、相手の悩みを取り除いてあげたいと思う気持ちである。
南方アジアの上座部仏教においては「慈」とは「人々に利益と安楽とをもたらそうと望むこと」(与楽)であり、「悲」とは「人々から不利益と苦を除去しようと欲すること」(抜苦)であると註解している。
慈悲の実践は社会の不正や理不尽な行為に、ほうっておけない憤りと悲しみを我が事のように感じ、どうにかしてあげたい、手を差し伸べずにはおれないと勇気をもって行動することである。
開祖のいう愛とは『してあげる、与えてあげることで喜びを感じる感情。あるいは、反対に自分が苦しんだり困っているときに、素直に他人の行為を受けいれられる、そういう意味で豊かな心を持った人を、私は育てたい』と述べられている。
※参考文献 慈悲 中村元 講談社学術文庫